津田左右吉と明治の千葉6−祝いの華やぎもシャクのタネ−


東京湾学会理事 小池 新



 津田左右吉が教壇に立っていたころの千葉中学は、歴史の大きな転換期にあった。開校は1878(明治11)年。「縣は時勢の必要に應じ縣立中學校設立の計畫を興し」「翌八月千葉中學校を設立した。これが縣下公立中學校の嚆矢である」(千葉県教育史巻二)。当初は千葉師範学校校舎(現在のNHK千葉放送局の場所)を共用。同学校女子部(現在の県教育会館付近)に移転し、名称変更を重ねたすえ、99年(明治32)7月5日、猪鼻山に隣接する葛城台の現在地に校舎を新築して移転した。そのことは2日後の津田の日記にも記されている。「けふは學校にて移轉式を行ひ、生徒武装護衛して校旗を新築校舎に移す」。校旗は2年前の11月、「校長以下職員生徒一同県庁へ出頭、知事柏田盛文より校旗一旒を授与された」と「創立百年」にある。

 11月1日には新築落成式が挙行された。同中学第1回卒業生で当時農商務省商工局長だった木内重四郎(のち衆院議員)らが出席。「11月1日(水)微雨 學校にて新築落成式を行ふ、そのさま例の如し、われは殆ど萬事の中心となりてくさゞの指揮にいそがはしかりしを覺ゆるのみ、式終りて後、縣会議事堂にて立食の宴を開く、狼藉混亂いふばかりなし」と津田は書く。式典進行の中心にありながら、鬱々として楽しまない表情が手に取るように分かる。サメてしまう≠スちなのだろう。

 直前に嫌気がさすこともあった。生徒の提灯行列が計画され「われに其の行進の歌つくれといふ」。2日前の日記にこう記し、歌詞を書き留めている。「三州初冬の空高く 袖浦ゆふべの波高し 仰げば無窮の蒼空に 千里萬星きらめきて…」。ところが10月31日、「職員會議にて提灯行列は廢案となりぬ、けふの人々のさまを見ても専制主義、獨斷主義の止むべからざるを覺りぬ」。彼にとって「面白くない」状態は落成式翌日も続く。「けふは校舎の縦覧を許したれば田中子とわれとは終日在校したり、あやしげなる賤の男、賤の女、老婆、子守までむらがり來りむらがり去る、喧囂雜閙かしらいたくなる覺ゆるまでなりき」。町民への一般公開だが、そうした祝いの華やぎも津田にはシャクのタネだった。(2017.4.5)

【参考文献】
「津田左右吉全集」岩波書店1963
「千葉県教育史」青史社1979
「創立百年」千葉県立千葉高等学校創立100周年記念事業期成会1978





津田左右吉と明治の千葉5 −「望郷台」からの眺め−


東京湾学会理事 小池 新



 千葉時代の津田左右吉が特に愛した場所は、訪れた頻度からみて、出洲、寒川、登戸などの海岸と並んで「望郷臺(台)」だ。日記に初めて登場するのは1898(明治31)年5月20日。奉職先の千葉中学は休みだったのか、いつも通り散歩に出て「午後、醫学校の前より東金街道をそゞろあるきし、とあるところより折れて曾我野に出で岡のすそに沿うて望郷臺下に歸り來りぬ」。相変わらずの健脚ぶりだが、記述を見ると、初めて行った場所とは思えない。それより8カ月余り前の97年9月10日の日記には「高等學校の前より猪の鼻臺にのぼり」とある。「醫学校」も「高等學校」も、87年に設立された旧制第一高等学校(一高)=現東京大教養学部=の医学部のこと。この後、独立して千葉医学専門学校(千葉医専)となり、現在の千葉大医学部につながる。

 「明治28年版」の「千葉繁盛記」には、「猪鼻山は千葉氏の三世忠常の時城を築きたる所にして」「今や古郭旧隍の跡猶ほ存す」とある。記述通り、千葉一族の本拠とされてきたが、近年の研究では、館があった場所は別で、現在の堀や土塁は15世紀、生実城主の原氏が築いた可能性が強い(「千葉県の歴史散歩」)という。日記の文脈からみて、津田が猪の鼻台のある場所を「望郷臺」と呼んでいたことは間違いない。

 「曉、望郷臺上に登りて遠く富士を見る、露も風も冷かなり」(99年10月3日)、 「曉風に駕して曉霧をふむ、見渡す限り縹緲として身は仙界にあるが如く~氣頓に清澄を覺ゆ」(同年11月21日)。ひときわ眺めがよかったが、悩める若者にとっては、景色をめでるだけでなく、自らの孤独な精神を見つめる場所でもあった。「望郷臺上を徘徊して獨りゆくへなきゆくへを索めて惆悵の感あり」(同年10月22日)

 いま猪の鼻台に上り、公園をあちこち歩いてみて、「ここかも」と思わせる場所が一カ所ある。春は露店が出て花見客でにぎわう広場の西側の端にある土塁の上。しかし、雑木の先に見えるのはビルと住宅だけで、津田の哀感を想像するのは難しい。思えば、その間に120年近い歳月が流れている。若者の悩みは現在もあるはずだが…。(2017.3.11)

「望郷臺」と思われる場所「望郷臺」と思われる場所

【参考文献】
「津田左右吉全集」岩波書店1963
「千葉繁盛記」1895=復刻・千葉市教育委員会1964
「千葉県の歴史散歩」山川出版社2006





津田左右吉と明治の千葉4−健脚のやじ馬−


東京湾学会理事 小池 新



 「午後、岡澤来訪。共に携へて貝塚村に至りたれど貝塚を見ること能はざりき」。1897(明治30)年の日記の6月10日の項で、津田左右吉はこう書いている。世界最大規模の縄文貝塚である加曽利貝塚のことだ。その10年前の87年、考古学者・上田英吉が「下総国千葉郡介墟記」で初めて紹介。1907年、東京人類学会が初発掘して「本邦第一の貝塚」と認められ、一躍有名になった(千葉市ホームページ)。津田が行ったのはその中間の時期。当時知られ始めてはいたが、未発掘だった。なぜ見られなかったのかは書いていない。

 98年6月4日には「犢橋村にて近きころ發見したりといふ貝塚を見にゆく。こゝより一里半ばかり距たりたるところなり」とある。やはり縄文時代の犢橋貝塚で、実際に発掘されたのは半世紀以上も後の1951年から。「かしここゝ掘りこゝろみたれど、さしたるものは見當らざりき、たゞ土器のかたわれなどはいと多し、むかしはこゝに戀もあり情もありけむものを、かはればかはるうき世ぞかし」と、遠い時代の人間の営みに思いをはせている。

 近くは登戸、寒川、千葉寺、ちょっと足を延ばして稲毛、検見川、幕張、佐倉、成田…。とにかく津田はよく歩く。時には「日ともすころ寒川あたりより千葉を一周して歸りぬ」ということも。若くもあったが、昔の人は皆健脚だった。

 郊外の名刹・大巌寺には通算3回訪れている。2回目の98年7月3日の記述。「寺の後なる森には鵜いと多し、月、うすぐもにおほはれて夜色何となく凄愴たり、鵜の聲もすごし」。3回目の99年5月8日には「例の鵜をめづらしげにながめつゝ芝生に坐して少し憩ふに、其の鳥の糞のために枝も葉もかれはてたる木立のうちを…」と書いている。私も何回か行ったことがあるが、恐ろしいほどの数で、フンを避けるのに必死だった。

 龍澤山大巌寺(浄土宗)は1551年、生実城主・原胤栄が、妻の病気が快癒したことから、道誉上人を開祖として創建され、江戸時代は「関東十八檀林」の1つとして繁栄。かつては多くのカワウが生息し「鵜の森」と呼ばれたが、1972年ごろ、姿を消した(「千葉県の歴史散歩」)。それにしても、津田の知識欲というか、やじ馬根性は旺盛だ。(2017.2.2)

【参考文献】
「津田左右吉全集」岩波書店1963
「千葉県の歴史散歩」山川出版社2006
千葉市ホームページ





津田左右吉と明治の千葉3−青春の彷徨−


東京湾学会理事 小池 新



 津田左右吉の千葉時代は、約7カ月のブランクを挟んで2回の計約2年8カ月。この間、あきれるほど、町内を縦横無尽に歩き回っている。

 最初に千葉の土地を踏んだのは1897(明治30)年5月11日夕。「五時二十分發の列車、われをのせて千葉に奔りぬ」(日記「涙痕録」)。この日は「加納屋といふに宿す」。2年前の95年に出版されたガイドブック=u千葉繁盛記」(藤井三郎著)には「旅人宿」の項に「千葉町の旅人宿少なからず而して其有名なるものを挙ぐれば」として最初に加納屋の名前が記されている。「軍用 吾妻町三丁目 石塚友七」。さらに1891年に出た同名の「千葉繁盛記」(君塚辰之助著)は「千葉町の旅店は其數六十軒餘、而して著名なるものは梅松樓加納屋…」「官吏は梅松樓に、紳士は加納屋に…」としている。両店とも料理屋を兼ねていた。

 「退校の後、岡澤と共に登戸といふ所に到る」と日記に書いたのは、3日後の5月14日。「こゝなるなにがし~社の~主の家に下宿すべき室ありと聞きたればなり、~社は海濱の小高きところにあり、ながめよしとにはあらねど海など見渡さる」とある。「なにがし神社」とは登渡神社のことだろう。95年の「千葉繁盛記」には「由緒 千葉家遺族登戸権介平定胤正保元年九月勧請」と載っており、当時から地元では知られていた。千葉日報社刊「千葉市風土記」によれば、滅亡した千葉氏の一族・平定胤が祖先の追善供養のため建立したとされる。しかし、既に下宿人が入っており、津田は5月16日、「新町の小菅といふ家に下宿を定めて引きうつりぬ」。

 「醫學校の邊より千葉寺のあたりを散歩し」(5月19日)、「晩餐後、運動せばやと登戸のあたりより海濱に沿うて逍遥す」(5月21日)という日々が始まる。勤務先の千葉中学からの行き帰りに足を延ばすほか、日曜日には遠出も。「午後、岡澤と共に検見川を經て幕張に至りて歸る」(6月6日)。この日歩いた距離は少なくとも十数キロに上ったはず。そこには、思い通りにいかない人生への不満と焦り、悩みと悶えがある。以前から引きずっている恋愛にまつわるわだかまりも。このころの津田青年は心身とも「青春の彷徨」の真っただ中にあった。「あゝわれは何故に悠然として精~を安靜ならしむる能わざるか」(5月20日)
(2017.1.11)

【参考文献】
「津田左右吉全集」岩波書店1963
「千葉繁盛記」1891、1895=復刻・千葉市教育委員会1964
「千葉市風土記」千葉日報社1981





津田左右吉と明治の千葉2−若き津田の悩み−


東京湾学会理事 小池 新



「上毛を痩骨稜嶂たる多感な詩人とせば両総はブクブクに肥えたとりなり。神経痴鈍なる三太郎なり」。千葉中学の教師として最初に赴任してから一週間もたたない1897年5月18日。津田左右吉は日記で、前任地の群馬と比べて千葉の風土に嫌悪感を表した。

 この時期の津田は、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読みふけるロマンチストで、才気にあふれた理想家・野心家。当時の写真を見ても、小柄で眼鏡をかけ短髪。プライドの高さと人見知りの性格が表れている。日記にも、文筆で身を立てたいと望みながら地方の中学教師に甘んじていることへの不満と焦り、同僚の教師や生徒に対する嫌悪と甘え、恋愛問題に揺れる感情、あるべき教育の理念、そして自負と自己反省が入りまじっている。短歌や俳句、漢詩でも思いを表現しており、一種の青春文学として読める。

 そんな津田にとって、千葉での生活は当初耐え難かったようだ。赴任前には「もう群馬でのようにずるけてもいられまい。これからはまじめの先生さまになるのよ」「千葉にはわれありといわれんほど勉めざるべからずと思う」(同年4月27日の日記)と冗談半分に書いたが、1カ月足らずでこのありさま。「彌望百里些かの変化なく些かの興趣なく眼界を遮るものなく、平坦卑湿惰気充満、至る処ただこれ汚泥濁水…」。言葉を極めて千葉をこきおろしている。

   2度目の赴任期間の1900年1月26日の日記に感情が噴出している。「つくづく思えばわが教授は不親切極まれる仕方なり。されどかかる小児曹を相手にしてまじめに講義の出来べしやは。ああわれいつまでか、かかる仕事に日を送るべきぞ。イヤなりイヤなり。何もかもイヤなり」。まるで駄々っ子だが、後年の碩学もまだ満二十六歳。思い通りに進まない人生への鬱屈した気持ちを日記にぶつけるしかなかったのだろう。

 「いそぎて学校へゆきしに、試験の準備整わずして徒にマゴツクことおおく、重げなる空気、かしましき群集にこゝろ益々乱れて、三年級の幾何を監督せる折、ひとり机によりて、何とはなしに不覚の涙を催しぬ。事了えて急ぎかえり床のべてうちふしけるもおぞましきわざなりや」(1899年7月1日)。ナイーブというより「おセンチ」で、日清戦争後の「バンカラ学生」でなくても「女々しい」と思うのではないか。(2016.12.4)







津田左右吉と明治の千葉1−赴任まで−


東京湾学会理事 小池 新



 古事記・日本書紀の実証的研究などで「津田史学」と呼ばれる独自の学術的成果を打ち立て、戦後、文化勲章を受章した歴史学者・津田左右吉。彼は明治時代後半、千葉で中学の教師をしていた。それも2度、計約3年にわたって。津田の軌跡を当時の千葉の時代相と重ねて振り返る。

 津田の本名は親文。1873(明治6)年、岐阜県加茂郡下米田村(現美濃加茂市)に元尾張藩士族の長男として生まれた。地元の小学校高等科を卒業後、東京専門学校(現早稲田大)の講義録を取り寄せ「校外生」として学習。当時、こうした向学心の強い学生は多かったようだ。その後、上京して同校に編入。優等で卒業した。

 同校で薫陶を受けた、教育官僚で成城学園創始者の沢柳政太郎に師事。彼から東洋史学者で「東洋文庫」の創立者・白鳥庫吉を紹介され、終世の師と仰ぐようになる。教員免許状を取得。まず、沢柳が校長を務めていた群馬県尋常中学校の教員に。転じて満23歳の1897(明治30)年5月、千葉中学校(当時の名称は千葉県尋常中学校)に赴任した。同年4月4日の津田の日記「風塵録」には「直ちに車を飛ばして白鳥を訪う。千葉の中学校にはなしのまとまるべき模様あり」とある(この時代の人たちは、日記にタイトルを付け、年ごとに変えることもある。樋口一葉が典型例)。

 同月25日の記述には「午前、表神保町の旅館旭館に菊池を訪づれ、わが千葉に赴任のこと相談まとまりぬ」とある。菊池は菊池謙二郎。茨城県出身で号は仙湖。大学予備門(のちの一高、現東大教養学部)では夏目漱石、正岡子規と同級で友人。変人として知られ、漱石の小説「吾輩は猫である」に登場する八木独仙のモデルともいわれる。この時、千葉中学の校長になることが決まっていた。

 津田が千葉中学を離れて2年後の1902(明治35)年の日記「枯木寒鴉録」12月26日の項では、白鳥から受けた恩顧を振り返り、感謝の念を表す中でこう書いている。「千葉に東京にわが位地を求むるを得しは皆な氏の推挙によりしものにて…」。白鳥は千葉県長柄郡長谷村(現茂原市)の生まれで千葉中学の第3回卒業生。同中学への赴任が白鳥の紹介だったことは間違いなく、校長になる菊池の同意を得たということだろう。こうして津田の千葉での生活が始まる。(2016.11.7)

【参考文献】『津田左右吉全集』岩波書店1963





テレビで描かれた東京湾


東京湾学会理事 小池 新



 テレビ放送が始まって間もないころ、「ダイヤル110番」という日本テレビのドラマがあった。実話を基にした事件もので、電話をとった警察官が「はい、こちら110番」と言うのがタイトルシーンだった。大好きで毎週見ていたが、後期に放送された1つの作品が忘れられない。海に面した湿地帯のような所で、2人の刑事が犯人が現れるのを待ち続けるストーリー。2週連続放送で、葦の茂る東京湾岸のうら寂しい風景が、犯罪のむなしさと捜査の厳しさを如実に物語っていた。

 20年以上前、「定年離婚」に関する取材をしていて、そのテーマでテレビドラマを書いたシナリオライター布施博一氏にインタビューした。流れで初期のテレビドラマの話になり、「ダイヤル110番」のその回の記憶を持ち出すと、驚いた表情で「それ、私が書いたんだわ」と言った。

 どういうわけか、ドラマの舞台は砂町(江東区)だと長い間、思い込んでいた。ところが、「Wikipedia」で見ると、タイトルは「江戸川堀江町」。7年間続いた番組が終わった1964(昭和39)年(東京オリンピックの年)の6月28日と7月5日に放映されている。主役の刑事は、戦前から活躍した俳優・河野秋武。地図などで見ると、堀江町は江戸川に面した地域で、その後「南葛西」に住居表示が変更。地名は事実上消滅していた。風景も激変しているに違いない。

 東京湾に注ぐ川の散策を好んだのは文豪永井荷風だ。特に荒川放水路の河口付近の風景を愛した。その理由を1936(昭和11)年の「放水路」という随筆に書いている。「自分から造出す果敢い空想に身を打沈めたいため」、「おりおり寂寞を追求して止まない一種の慾情を禁じ得ない」。そこには明らかに、関東大震災以前の時代の懐古に加えて、大都市・東京の喧騒や人間の錯綜と対比した河口の寂寥のイメージがある。それも、東京を「後景」に持つ東京湾の一面だ。(2016.9.4)





映画に描かれた東京湾 - 1 -


東京湾学会理事 小池 新



 大都市・東京を背後に持つ東京湾は、数多くの映画でさまざまに描かれてきた。

 ずばり「東京湾」という映画がある。「張り込み」「砂の器」などで知られる野村芳太郎監督の1962年松竹作品。川本三郎「銀幕の東京」によれば、スターだった佐田啓二が珍しくも企画した「サスペンス映画の秀作」だが、残念ながらDVD化されておらず、私はいままで見る機会がない。

 巨匠と呼ばれた小津安二郎監督は、生まれが深川で住居が野田と北鎌倉など、所属した松竹の撮影所が蒲田と大船だったから、東京を描くことが多かった(「東京」が題名に入る作品が5本)。東京湾岸も、戦前から繰り返し舞台に取り上げた。特に江東地区が目立ち、無声映画時代の「出来ごころ」(1933年)をはじめ、「東京の宿」(1936年)、戦後第1作の「風の中の牝鶏」(1947年)で、原っぱやガスタンクを登場させている。

 ほかにも「早春」(1956年)で蒲田や大森を、遺作「秋刀魚の味」(1962年)では川崎や新橋が取り上げられた。しかし、晩年は開発による変貌を嫌ってか、東京湾を離れ、山の手や鎌倉などを舞台にすることが多かった。

 「小津と東京」の映画で最も印象深いのは1936年の「一人息子」だろう。立身出世の期待を背負って信州から上京したものの、夜学の教師をしている息子と、会いに来た母が洲崎の埋め立て地に座って会話をする。「お母さん、がっかりしてるんじゃない?」。息子の問いに、母は「おまえはこれからだ」と答えつつ、不安を隠せない。遠くにごみ焼却場の煙突が見え、晴天に雲雀が飛んでいる。のどかだが荒涼とした風景の中で、母と子の夢を阻む都会の現実の厳しさが見る者にしみ入ってくる。(2016. 8.7)





稲毛昔日


東京湾学会理事 小池 新



 京成稲毛駅を降りると、途端にプーンと海藻の匂いがした。緩やかな坂を下る間に見る家の表札は、この土地独特の名字だ。「並木」「川島」「海宝」…。左側には「稲毛銀映」という小さな映画館があった。長谷川一夫主演の「銭形平次」シリーズだったか、3本立てを見た記憶がある。客席は公園にあるような木のベンチだった。その先に見えてくる浅間神社は、山の上に立つ、小さくて貧相な社だった。氏子も少なかったのだろう。そのころの神主は、私が行った中学の教師をしていた。私の入学前に病気で退職したが…。周辺は、ちょっと脇に入れば、道は狭く入り組んで、行き止まりも多い。昔の漁村そのままだった。

 小さいころから両親はよく、7月15日の浅間神社の祭りに私を連れて行ってくれた。「おまえの誕生日と一緒だったね」と母はいつも言った。私が誕生日を覚えてもらえていたのは、そのせいだったからかもしれない。私の守り神のように思っていたのか。いまも浅間神社のお守りだけは持っている。

 そのうち、稲毛の海の埋め立てが進み、海の中にあった神社の大鳥居は陸の上へ。新しい住宅が増えるたび、祭りはにぎやかになり、社殿や社務所、神楽殿などが立派になっていった。同時に、神域全体がよそよそしくなっていくような気がした。

 父母は晩年稲毛に住み、街を気に入っていた。それは、磯臭くておおらかだった稲毛の残像のためだったのだろうと、最近になって思う。(2016. 7.1)





母の寒川


東京湾学会理事 小池 新



 おととし死んだ私の母は、千葉・寒川の魚問屋の生まれだった。寒川は佐倉藩の御用港として栄えた千葉の主要港。私の印象では、他の旧市内地域とはちょっと違った、独特の風土(水土?)だった。母は幼いときに両親を亡くし、結婚するまで家業を手伝わされた。「大樽に漬けた数の子をポリポリつまみながら」仕事をしたという。それでも、刺し身はあまり好きではなかった。

 母より1年早く亡くなった母の弟は歌人だった。永田和宏「現代秀歌」(岩波新書)にも1首選ばれている。母を恋う歌も多く、「母恋」というタイトルの歌集もある。母が千葉高女(現千葉女子高)に行っていたとき、授業で「短歌を作ってくる」課題が出た。困った母は弟に頼んで“代作”をしてもらった。それが「糸を張る小さき蜘蛛を見つめつつ物思いする母の命日」という一首。担当教諭の伊藤公平に激賞された―。母はこのことを、死ぬまで何十回となく私に話し、私はその歌を覚えてしまった。

 最後の2年ほど、昔の千葉の写真集を繰って見せると、母は必ず寒川の漁村風景のページにだけ目を止めた。「こんなふうだった?」と聞くと、黙ってうなづき、写真を見つめた。結婚して家を離れてから住んだ市内の何カ所かについては全く関心を示さなかった。母にはもう、寒川の記憶しか残っていなかったのだろう。彼女は東京湾岸に生きた女性だった。 (2016.6.3)





17歳の埋め立て地


東京湾学会理事 小池 新



 東京オリンピックが終わった1964年の晩秋だったと思う。17歳の高校2年生だった私は、学校の授業が終わっても家に帰らなかった。

 子どものころから母親と相性が悪く、腹を立てたり、怒られたりすると家を出た。最も古い記憶も、母との間で何か面白くないことがあって飛び出し、昔の国鉄千葉駅前にあった地図の絵看板をぼんやり見上げている構図だった

 そのときも何が原因だったのか、思い出せない。家に戻る気が消えていた。高校から歩いて京成千葉駅を過ぎ、国道を越えると、一面の埋め立て地。ようやく土が乾いた程度で、雑草もほとんど生えていない。でこぼこして、新しい海岸も見通せない広さ。ところどころに排水路が走り、瓦礫やコンクリート片、土管、木材などがころがっている。私は前からそこが好きで、学校帰りなどによく来ていた。

 しばらく1人で遊んでいた。的を作って石を投げつける。架かっている丸太にぶら下がって排水路を渡る…。あのとき、何を考えていたのか。「家も学校も面白くない。あらゆる世界から見捨てられている」。そんな心持ちだった気がする。未来が考えられなかった。

 日が落ちて暗くなってきた。埋め立て地の一角に廃車を集めた場所があった。鉄条網をくぐって中に入り、トラックの1台の運転席で寝ようとした。しかし、学生服だけで寒くて眠れない。一瞬うとうとした程度で、朝になると高校に行った。何も食べておらず、金もなかった。昼休みになり、たぶん、様子を見かねたのだろう。同級生の1人が「これ」と、弁当の半分をふたに乗せて渡してくれた。その味は忘れない。その日は家に帰った。私は何も話さず、母も父も何も言わなかった。

 あれが曲がり角だったのか。母と衝突することが減り、埋め立て地に行くこともなくなった。ただ、あの荒涼とした風景は、当時の自分の心象と重なって、半世紀たったいまも忘れることができない。(2016.5.8)





あの海たちは遠く


東京湾学会理事 小池 新



 戦後、千葉の旧市内で生まれ育った子どもたちにとって、近くの海水浴場にはっきりしたランク付けがあった。市内で一番きれいなのは黒砂で、千葉海岸はゴミが多い。最高級は、ちょっと離れた富津だった。そんな中で、最も身近だったのは出洲。市内から歩いて行ける気軽な海で、よく家族で行った。途中にあった映画館「ダイヤモンド劇場」は当時、西部劇など洋画の旧作を上映していて、子どもたちにも人気があった。

 その出洲海岸で、泳いでいるうち、油の膜が目に入るようになった。すぐ近くに見える埋め立て地に川崎製鉄の製鉄所ができ、初めて溶鉱炉に火が入ったのが1953(昭和28)年6月。私が小学校に入る前の年だった。千葉県が、進出企業に極めて有利な条件の「千葉方式」で誘致。京葉工業地帯が形成される実質的なスタートだった。しかし、当時の私たちは何も分からず、やがて出洲は、近くにあっても泳げない海になった。

 黒砂も他の海岸と同様遠浅で、長い桟橋を渡って入る海の家が並んでいた。私の父はケチだったからか、連れて行ってくれても、海の家には入らず、海岸を走っていた国道沿いの変電施設の後ろで着替えをした。子どもごころに恥ずかしかったが、いまになってみると、かけがえのない思い出だ。その黒砂の海岸も消え、京成の駅名も変わった。

 半世紀以上がたち、その海たちも遠くに消えた。稲毛の浅間神社にはいまも行くことがある。そこから眺めると、かつて海だったところには、中高層の住宅やビルが延々と続いている。そんなとき、ふと「海を失った人間はなぜ悲しいんだろう」という、詩のようなフレーズが頭に浮かぶ。人間社会の進歩と一定程度の開発の必要性は認めながら…。いまの千葉の子どもには、海は遠い存在かもしれない。でも、私には「東京湾岸の子ども」という感覚が確かにある。いまも何かのときに浮かび上がり、私を懐かしく悲しい気持ちにさせる。(2016.4.1)